おもしろきこともなき世におもしろく

ライトノベル・SF・マンガ・ゲームの感想。それにMtG(モダン・ドラフト)についてちょろちょろと記載。

プラネテス考察 ロックスミス




プラネテスのポリティカ その3
(猿虎日記)を読んで少しばかり思うところがあったので、形にしてみようと思います。

<ロックスミスに関して、かなり深い考察を書かれていますが、このプラネテスという漫画の中では1、2を争う魅力のあるキャラクターですね。実際多くの人がそう感じている様子が、猿虎日記さんを読んでいるとコメントなどから推測できます。

 

さて、今回この記事を書こうと思ったのはロックスミスに対する意見の違いからです。

 

猿虎日記さんではロックスミスを、

ロックスミスは324人をはるかに上回る「みんな」の幸せ、という「大きなもの」を生み出したのだから、悪魔のように見えるロックスミスの方が、実は「道徳的にも」偉大な人物なのである、という道筋がひそかにつけられているのです。」

または、

ロックスミスも、「ダーク」ヒーローかもしれませんが、やはり「ヒーロー」として描かれています。」

 

プラネテスのポリティカ3では道徳的な面から、ロックスミスを断罪しているように思えますが、彼はまさしく、道徳というものを超越しているといえるのではないでしょうか。それはプラネテスのポリティカ3で

 

「ここはちょっと象徴的な表現だと思います。「二つ返事でうんと肯けない」というのは、324人もの人を殺すことが、「通常の」道徳では肯定できないからです。そして、ロックスミスは、その「通常の」道徳では肯定できない恐ろしいことを実際に行った。ところが、そのことによって、ロックスミスは、通常の道徳の枠の中で大きな罪を犯したのではなく、通常の道徳の枠を超えるほど大きなことを行った、と解釈されるのです。「歴史の英傑」は「悪魔のように嫌われ憎まれた」というコメント(tyokorataさん)がありましたが、悪魔のようなことを行ったロックスミスは、通常の道徳では裁けないほどの大物(英雄)なのです。これはつまり、犯罪者の英雄化のからくりです。このからくりの中では、「英雄」は、ちっぽけな一般人がとらわれている通常の道徳などというものを超えた、もっと「大きい」ことにかかわっているがゆえに「英雄」(ヒーロー)だとされるわけです。」

 

と表現されているのとは違う意味で、超越していると思うのです。

ロックスミスという人間について作中でゴローは

「自分のワガママを繕うそぶりがまるでない」

「ああいう悪魔みたいな男はいい仕事をするぞ」

と評価しています。

 

また、自分自身を

 

「私が宇宙船以外をなにひとつ愛せないという逸材だからさ」

 

と評価しています。

なにより宇宙開発を駆り立てるものが「みんなの幸せ」「人類の幸せ」などの大きな目的ではないということが、ゴローのセリフに託して作品で述べられています。

 

「20世紀初頭に宇宙旅行を夢見たロシアのおっさんがそれを叶えるために一発吹いたのさ」「大先輩(ツィオルコフスキー)は頭がいいから自分の欲望を人類全体の問題にすりかえたんだ」「オレは宇宙に来たかったら来たんだ」「飽きたら去る」「それだけだ」「わがままになるのが怖い奴に宇宙は拓けねぇさ」

 

とあるように、宇宙開発はあくまで開発者のエゴに過ぎないと描かれています。結果として、人類の幸せにつながるかもしれないにすぎないことがことさらに人類の幸せをもたらすための手段として、引き合いに出されるのはただただ戦略にすぎないのだ、ということです。

つまりこの作品の中ではロックスミスはあくまで自分のエゴを貫き通した人物として描かれているのです。ロックスミスが「人類の幸せ」を追求する偉大な人物に思えるならばそれは読者がまさにツィオルコフスキーの示したロジックに引っ掛かっているだけなのです。ツィオルコフスキーについて述べるゴローのセリフから明らかなように宇宙開発をより進めるためには、ロックスミスは外見としては道徳的に優れた人物でなければなりません。なぜなら、宇宙開発は「人類の幸せ」という大きな目的を達成するために行われるのですから。

だから「ヤマガタを私が殺した」と認める一方で、ヤマガタの妹に対してはヤマガタの死にはだれもかかわっていない、彼はグスコーブドリのような人間だった、と言うのです。そして、自らにたいするグスコーブドリのようだ、という評価に対して異論をはさまない。彼はそう見られなければならないのですから。

 

彼の本当の姿は弱い自分を、苦しむ自分を、弱い人間を、苦しむ人間を認められない、弱いことに耐えられないから強くなってしまった人間なのではないでしょうか。苦しみに耐えることができなかったから、強くなり、そして、また一面では弱いがゆえに人の愛を認めることができない。だから神の愛、本当の愛、というものを宇宙をひっくり返してでも探そうとすることをやめられないのではないでしょうか。