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おもしろきこともなき世におもしろく

ライトノベル・SF・マンガ・ゲームの感想。それにMtG(モダン・ドラフト)についてちょろちょろと記載。

何故暴力や児童ポルノを規制したがる人間が創作物•フィクションにも噛み付くのか

タイトルどおりのことをつらつら考えていたわけです。

よく言われるのが実害の有無ではなく、暴力やポルノを好む人間がいること自体がどうしようもなくて許せない人がいるという話ですが、それだけだと面白くもないので、もう少し踏み込んで。

•安全地帯から憤る人には、現実の被害もフィクションでの被害もそもそも違いがないのではないか。
そもそも暴力や性被害の渦中にいる人ではなく、被害者に共感して憤るひとたちは、良くも悪くも安全地帯、自分自身や身近なひとが暴力や性被害の直接被害に会うことはまずないのでは、と思っています。
別に当事者ではないから発言や行動をする権利がないというつもりはないです。
ただ事実としてそうなんじゃないかな、と思うだけです。
そして、そういった安全地帯、火事の向こう岸から見ているひとたちには、実際に暴力やレイプと創作物内の暴力やレイプとには本質的な違いはないのではないかな、と思うのです。

現実に起きたことも、フィクションの中で起きたことも、自分に対して直接的被害を与えないという点では同じ。

個人的にはカイジの兵藤のセリフに端的に現れているとおもいます。
折れた足を弄られると彼は痛むがワシは痛まない。。。カイジくんもそれは同じだろう?

そうなんですよ、人間が持ってる共感力とか置いておいて、純粋な物理的な話だけを言うなら、他人が苦しんでいて、それを知っていても自分は痛くない。

でも人間には想像力、共感力があるので他人の痛みを慮ることもできるし自分のことのように感じることもできる。

素晴らしいことですし、社会の一員として共同体を回していくためには必須な能力でもあると思います。

でも、自分は痛くないのに、相手の痛みを想像できる、共感出来るということは、この能力は痛みの実在とは無関係だ、ということを示唆しています。

もちろん、上の例ではいえば誰かが痛がっているのをみて、想像力•共感力を働かせるのですから、存在しているはずだ、と主張したくなるかもしれません。

でも、巧妙な演技だったとしてらどうでしょう?

痛みなんて存在しない。でもその存在しないものを想像し、共感することができるのです。

で、今回言いたいのは実はこの想像力、共感力というものの本質が現実もアニメも関係ない、暴力を振るうのを好む人間がいて、その被害者がいること自体が許せないという気持ちに繋がっていくのだ、ということです。

社会を円滑に回す想像力•共感力の本質とは

で本質本質言うてそれなんなん?ということに対して本題に入ります。

想像力•共感力は、存在しないものをきっと、想像力•共感力を働かせている人間がきっとそうだろう、そうに違いないと働かせるものなのです。

つまり想像力•共感力の本質は答えは自分の中にしかない、となります。
非常にパワフルな力を持つ一方で、不確かな危ないものなんですね。

だから!暴力やらアニメやらを規制して行く上で、青少年を守るといったときにフィクションだから、被害者いねーよ、というのは、規制派の原動力がそもそも現実にはどうなのか?相手はどう思っているのかるとかと関係ないので今一つ意味がある主張じゃないのだと思います。

くっそ長くなった上にスマホからポチポチブログ書いてて構成を書き直すつもりないので一旦公開。
あとで推敲はするかも。