おもしろきこともなき世におもしろく

ライトノベル・SF・マンガ・ゲームの感想。それにMtG(モダン・ドラフト)についてちょろちょろと記載。

楽園追放をみて

楽園追放を友達と徹夜でみたのでざっくりとした感想。

眠すぎたせいで、物語のテーマ的な部分はほとんど考えられない状態でみたので、結構脊髄反射的な感じたことばっかりを書き留める。


電脳世界と肉の体と

マテリアルボディと機械の上のメモリ状態の時との行き来がどれくらい簡単にできるのかが気になった。
ディアスポラの描写だと、あくまで自分のコピーを物理的な体に入れるって設定だったが、楽園追放だと、コピーとかではなくて本体がコピーされるという印象。

実際、地上にある肉体は主人公のアンジェラ・バルザックが抜けてでたら抜け殻になっちゃったし。
正直な話マテリアルボディが実際の普通の肉体だったのだとしたら、「入って、そしてまた抜けたもの」は一体なんなのか?気になる。

電子上のデータとして何かはいってみたら魂とでもいうものなんだろうか。そもそもアンジェラのデータが消滅しても、肉体自体がもともともっている意識とでもいうべきものは消えないのではないかなと思ったので、そういうところも含めてすごい違和感。
それともマテリアル・ボディってサイボーグボディみたいなものであって生の肉体というわけではないのだろうか。

ディンゴが、マテリアルボディとはいえ気が引ける、みたいなことを攻撃する時にいってたからディーヴァの人間というのはマテリアルボディが破壊されても、意識が消滅するわけではないのかもしれない。

でも、冒頭ではディーヴァとの衛星リンクを絶たれたアンジェラがどうやってディーヴァにかえればいいのよ!っていってたし、やはりあのマテリアルボディには本体というか意識そのものがでたり入ったりするものみたいなんだよなぁ。

あと、肉体に対してのアンジェラの韜晦について。
肉体を捨てたことによってより本質的なものに触れることができるようになったってアンジェラはいってたけど、他のエージェントに抜け駆けて成果を出そうとしたりかなり俗っぽいところが目立った。
俺は肉体を捨てて~とかんがえるともっと俗っぽくない存在になるんだと期待してたのになぁ。
虚淵が、未来は資本主義でお金が大事から電脳世界でメモリが大事に有るでしょという話をしたから、メモリ・メモリっていってるとかいていう話だった。
でもそれってやはりかなり安易な未来の価値観でいやな感じ。

未来の価値観とかを考えるにあたってはやはり認知構造そのものの変化が起きてると思いたい。とくに肉体→電子上のデータという大きな変化があるんだから。

ただ単に重要だと考えるものが変化するだけって未来予想はつまらないから嫌い。
お金→メモリみたいな重視するものが変わるだけっていう描写はがっかりだった。
同じようながっかり感は家畜人ヤプーの女尊男卑世界感でも感じたけどね。
男性と女性の役割がただただ入替わるというようなだけの描写では自分個人は納得できなかった。

いや、家畜人ヤプーは見るべきところはもっと違うところなのかもしれないけどさ。

アニメSF映画としての立ち位置について

いままでのアニメの集大成として作ったみたいな話を聞くと、それがケツか?とはなってしまう。
でもロボットと女の子はある意味日本のアニメの良さの集大成ともいえるか?

3DCGのわりに登場人物が不気味の谷に落ち込んでいないのは、

ASCII.jp:「40代で負けたら2度目はない」――『楽園追放』は勝つためのフィルム (1/5)|渡辺由美子の「誰がためにアニメは生まれる」

でも書かれているけど、表情の作り込みがよくできていて、表情パターンがすごいたくさんあるからかもしれない。
ただ、アンジェラ・バルザックの表情はよくできていたように感じるけどどことなくエヴァンゲリオンのアスカっぽい。
いや、言動のツンデレぷりを見てもテンプレ/王道であるというところもいままでの作品の積み重ねですとも言えると思います。
あと圧倒的無能さも。主人公が馬鹿なことするけど頼りになるディンゴがなんでも解決していく。ある意味リアルだけどね。
ああいうのを見ると失敗してばかりの人間でも前向きに物事を進めていこうとするのって大事なんだなって思った。あれで自分は仕事ができないからやりません、みたいな態度をとってしまうよりも今度はうまいことやってやるぜ!って前向きささえあれば周りの人のサポートで物事全体としてみるとうまく進むんだろうなってね。

虚淵はすぐにテンプレ的な、芸のないキャラ造形に走るから困る。ある意味王道かもしれないけどさ。

美樹さやかのキャラ造形に関しては、テンプレすぎて逆に職人の技って感じがしたけどさ。

物語のテーマ的にはユートピアよりも、辛くても荒廃してても自由な地上のほうがいいということなんだろうか。

でも結局のところ尺が足りないのかなんなのか、ディーヴァで暮らすことと、地上で暮らすことのメリット・デメリットがほとんど描写されないせいでなんかディーヴァで生活するのしんどそうだから、地上で生活するのもそれでいいんんじゃない?っておもっちゃう。

実際、物語冒頭で謎の生物を殺して食べて地上の人間はそれなりに元気に生きていますみたいな話だし。

ディーヴァで、人は豊かになって苦しむことがなくなったように一見すると思われるけど結局能力によって、与えられるリソースがへって管理社会の中でも割りを食って苦しむ人間はいるというような陳腐な話になってしまっていた。
豊かになった社会でも、結局社会に貢献できていないやつは十分なメモリが与えられず困ってるんだよみたいな話

まぁ管理社会が嫌いなので、ユートピアよりもアルカディアのほうがいいけど。
でもね、ユートピアよりも地上の雑然とした暮らしのほうがいいっていうディンゴの思いはやはり強者の思いでしかないんだとも思う。

ユートピア思想がどうして生まれたのかとか考えるとさ。

弱肉強食の地獄を見飽きた人たちがユートピアというものに心惹かれていったのだとしたら、やはりその地上の地獄部分を見せずに、管理社会よりも苦しいこともあるけど混沌としている地上のほうがいいというのが、極端すぎるのはよくないというようにしか思えないもの。

つまり楽園追放を見た最大の感想は、ぼくには追放される楽園もないよ、ということでしたというオチ。

特にオチもないのでここで感想は終わり。