SF小説の名作、フィリップ・K・ディック著「高い城の男」 感想
高い城の男をよんだが、やはり巷の評判は正しく、名作であった。
フィリップ・K・ディックという人間が1961年に発表した作品である。
フィリップ・K・ディックという人は、どうもロバート・A・ハインラインとくらべてもまだまだ先進性のある人間で、「高い城の男」が「月は無慈悲な夜の女王」、「宇宙の戦士」と同じ年代に書かれた本とは、とても思えない。
第二次世界大戦の戦勝国と敗戦国が入れ替わった世界
日本とナチス・ドイツが勝者となり、アメリカとソ連は敗北者となった世界。
このネタは意外とポピュラーらしく、他のSF作品でも主題にされているようだ。
しかし、戦勝国と敗戦国が入れ替わっているだけでなく、さらに、もし第二次世界大戦が本来の世界と同じだったら、という架空の小説が作中世界で流行っているという設定は、独特のものだ。
独特というよりも少し倒錯的とすら言えるかもしれない。
易経への傾倒
フィリップ・K・ディック自体の趣味のようですが、(1960年台には易経を自分の行動の指針としていることを認めている)物語のプロットを易経を使って作ったことも認めている。
物質と精神の対比
作中の登場人物はおおく肉体的なものよりも精神的なものを好む。
凡俗であることを嫌う。
そして、作中には精神と物質だけでなくおおくの二元論がでてくる。
さらに、戦勝国と敗戦国、ドイツ人と日本人といった対比もなされる。
生き生きとした登場人物たち
性格描写に特に力が入っている作品で、田上、チルダン、ジュリアナ、フランクと魅力的なキャラクターたちがたくさんでくる。
その一方で鼻持ちならない人間もまたでてくる。
ドイツのSDの手下の、メーレ将軍などだ。
田上が、メーレ将軍に糞食らえというシーン。
この時に示した田上の勇気こそが、ある意味での物語の主題であるのだと思う。
ストーリー自体は、なんというか中途半端に終わってしまうのだけれど、人々の精神の推移をメインとして捉えると、田上がSDと対立するその際に、発揮した勇気がどこから現れたのかこが、メインのプロットだったのだろう。
あやふやになっていく現実と虚構の世界
本作で深く底に流れているものとして、対比がある。
その対比の一つに、現実と虚構・贋作の対比がある。
史実性という言葉もまた、この現実・虚構、本物・贋作の対比に使われた。
ものに史実性が宿るのか?という挿話が作中で描かれていたのだ。
挿話はざっくりというと下のような話だ
ジョン・F・ケネディが暗殺されたときにもっていたライター。それには非常に高い歴史的価値が見出されるのだが、その歴史的価値はライターそのものに宿るのか?
否!
作中の登場人物は、二種類の同じライター、片方には史実性があり、もう片方には史実性がない、を見ても違いがわからない。
ライターではなく、そのライターがたしかにその時そこにあったことを証明する証明書にこそ宿っていたのだった。
アンティーク作品の贋作を作ることを仕事にしていた、アメリカ人の職人たちが最後にはアメリカの現代芸術作品を作り始めるところもまた、上記の話からすると象徴的だ。
つまり、史実性とういものが曖昧で不確定なものであるなら、当然、昔のアンティーク作品に価値があるのならば、現代に作られた作品にも価値があるに決まっているのだ。
特に、そのアンティークというものが、現代にアンティーク風に作られただけのものであるならば尚更だ。
アンティーク風の贋作に価値があるということは、虚構にも価値があるということである。
現実に見せかけた虚構に価値があるのだから、現実にも当然のように価値があるということになる。
どんどんと虚構と現実が入り混じってあやふやになっていく。
そもそも、アンティークに価値があったから現代作品も価値があるのか?
現代作品に価値があるからアンティークに価値があるのか。
それらが全く理解できなくなっていき、現実が崩壊する非常な不可思議な気分が味わえる名作である。