fate/staynightの思い出
FGOが売れている。
しかし自分の中ではfateってこんなもんではないだろうという思いがある。
2004年のゲームの思い出を引きずって2017年のドル箱コンテンツを馬鹿にするなんてダサくて仕方ないのだがそう思ってしまうんだから仕方のないこと。
当時の思いについてはこんなことをtwitterで書いたりもした。
人生にはアンリミテッドブレードワークスの詠唱がかっこよく感じられる貴重な時期があるんだよ。その時期にfateできるかどうかなんだよ。
— サブカルカオマンガイ (@kadath_bot) January 4, 2017
やはり当時ガキの頃に触れたコンテンツにはどうしても感傷が発生してしまう。
そんな中でヘブンスフィールの1作目が出たので見に行ったのであった。
友達と見にいったのだが、友達も高校くらいの時にfateに親しみ、zeroが出て、アニメ化して、DDDを楽しみ、FGOが出てとずっと型月コンテンツに触れ続けている型月ファンという感じの人間。
その友人と話をしていて思ったが、ヘブンスフィールの映画は実に型月らしい映画だった。
内省的でジメジメしてて異常者がやたらと出てくる話だ。
間桐慎二も味が出ていた。
やつはUBWのアニメでもある意味活躍していたが、やはりこいつの本番はヘブンスフィールだろう。
魔術師の名家に生まれてきたにも関わらず、魔術の才能はなく、他所から貰われてきた義理の妹が本線になるという不遇っぷり。
ヘブンスフィール作中では魔術の勉強をしているシーンまで出て来て泣ける。
士郎くんとも最初は友人だったのにどんどん関係が崩れて行く様はかなり悲しい。
ヘブンスフィールは正義の味方を目指す異常者の士郎くんが人間になる話でもあるから士郎くんに不愉快なことしかしない間桐慎二との関係が崩れるというのも必然でありテーマの一部なんでよね。
fate発売当時はこのヘブンスフィールルートの士郎くんの評判が特に悪かったのを覚えている。
屍蝋くんと呼ばれていた気がする。
何が人気がないかというと、大量殺人鬼の間桐桜を許してしまうことがありえない、という話だったかと思う。
創作の中にまでポリコレを持ち込まなくても、と思わなくもないのだが、感情移入できないキャラになってる、つまらないという話かとも思う。
ただ、桜はヒロインの中で一番士郎くんが入れ込んでいるヒロインでもあるし、そういう設定になっていたとは思う。
意味のないHシーンが多いという叩かれ方もしていたが、あれは士郎くんと桜の関係性を描写するためのもので、Hシーンの描写には意味がないがそこにHシーンが入ることには意味があるという類のものだったかと思う。
セイバールート、凛ルートではHシーンは明確に魔力供給という意味があり設定があり、その中で何かが芽生えちゃう見たいな話だった。
桜ルートは抑えきれない何かがHシーンに転化され、そこに実はこんな意味があったという塩梅だったはず。
そこはやはり奈須きのこもそれなりに明確に意識して作品作りをしていたのではないかと思う。
だらだらと当時思っていたことを言葉にしているが、やはりFGOとの違いが目につく。
fateという物語はやはり暗くてジメジメしていて繊細な感性の元に作られていたと思う。
FGOは何の前もない人間がたまたま世界を救う組織に選ばれてやらなきゃいけないことをやるだけやん?と世界を救ってしまう話で、基本的にはカラッとしている話である。
サーヴァントという設定上一期一会の出会いと別れが多くなるはずだがそこにはジメジメした気配がない。
同じfate作品でここまで真逆の作りになっていてそれが受けるように見えているのもどうにも面白い。
奈須きのこがストーリーを書いているため、7章及びソロモンくらいは少しばかりジメジメした話になっている。
特に最終特異点とかな!ロマ二とフォウくんの扱いを見るとやはりきのこはきのこだなー、となっちゃうわけですね。
閑話休題。
しかし、fateといえば作中登場人物の狂った内面とその狂った登場人物が織りなす伝奇小説風なドッタンバッタンが魅力だったのにFGOは随分遠くまで来たもんだなぁと思ってしまったのでした。