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おもしろきこともなき世におもしろく

ライトノベル・SF・マンガ・ゲームの感想。それにMtG(モダン・ドラフト)についてちょろちょろと記載。

ドッペルゲンガーの恋人読了

ライトノベル

ドッペルゲンガーの恋人を読了

ドッペルゲンガーの恋人 (星海社FICTIONS)

ドッペルゲンガーの恋人 (星海社FICTIONS)


ネタバレありありの感想です。

もともと瀬戸口廉也名義で、CARNIVAL、SWANSONG、キラ☆キラといった作品を書いていたライターさんの作品です。
今の名義は唐辺葉介
昔から唐辺葉介は、瀬戸口廉也では?といわれていたようですが、いつかの新宿ロフトプラスワンのイベントで、ご自分で認められていたようですね。
(参考:
瀬戸口廉也 - Wikipedia

ドッペルゲンガーも作者っぽい作品ですが、電気サーカスはもっと瀬戸口廉也っぽい作品でした。
作者は、エロゲライターになる前はサラリーマンをやっていたのを、体調不良等で退職されたのが原因で、どうもライターになったようです。
そういった不遇な経験もされているせいか、ままならない状況に流される無気力さのある男性主人公を描くのが非常にうまくて、私はその倦怠感が好きです。

感想を書いていきますが、ネタバレは注意。

あらすじと感想

クローン技術が発達した未来。
クローンを作ることは違法行為となっていた。それでも性奴隷にしたり、臓器移植に利用したり用途はいろいろあるのでクローン犯罪は絶えない。
また、そうやって犯罪行為で生まれたクローン人間とはいえ、保護されれば1人の人間として生きていくことができる。
そんな世相の世界が舞台です。
主人公たちは、戦争が起きているということから、政治家の延命のためにただクローンを作るだけではなく、クローンに元になった人間の記憶までを移植する研究を行います。
主人公のモチベーションは、死病で死んでしまった恋人をこのクローン技術を利用して生き返らせることでした。
主人公は自分の死んでしまった恋人を実験体にして禁断のクローン技術を研究する科学者だったのです。
とかいうとなかむだにおどろおどろしいですねw

人は何をもって自分が自分であると思うのか

クローン人間化された恋人・木原慧は自分が死ぬ前と同じ人間なのかどうか、自己同一性に悩みを抱えることになります。
最終的には自分が、かつて木原慧だったもののコピーでしかないと感じるようになるんですね。
でも主人公の土師は自分がクローン化された時に自己同一性を失わない。
この違いはどこから生まれ来るのだろうか。
クローン技術・精神移植技術?の失敗として自己同一性があるのではなくあくまで移植される個人のタイプ別の問題でしかない、ということなんだろうか。

木原慧の場合、自分はもはや木原慧ではないのだと思っていた。
逆に土師は自分自身こそが土師であり、元の土師はもはや自分ではないんのだと感じる。
ここに一体どのような違いがあるのだろうか。
彼女はクローンの肉体が元の肉体とは微妙に違ってくること、また細かな記憶の忘却をうったえいてた。もともと自分が死体の記憶を移し替えられただけの存在だと思っていたのか、あるいは肉体や記憶の問題からそういう発想に至ったかは謎だが。
主人公は一方で、「我思う故に我あり」とでも言えばいいのか、細かな肉体の違いや記憶についての問題にはほぼひっかからなかったようだ。

我思う故に我ありなんてのは総ての人間に言えるようなことではないと思う。なんというか思考が強い人間もいればそれほど強烈な考えを持たない人間もいると思う。
思考が強いタイプは、肉体が少々変わっても、記憶の不備を感じても自分の感じ方が変わらない限りはそれほども自分が自分ではないと感じないんだろうとか思った。

ラストの、主人公の夢の解釈は?

物語の最後に主人公は夢を見る。それは、クローンで若い肉体と元の精神を手に入れた主人公が、クローンに記憶を提供した側の主人公。言ってみれば大本の自分と出会う夢だ。
クローンになり若返った主人公は、自分自信が土師であることには疑問を覚えないのだが、夢の中にでてきた元の自分にたいして、自分はこんな人間だったか、と疑問を覚える。

実生活では、土師の立場で考えることが多いと思う。過去の自分をまるで自分ではなかったようだ、と感じる機会はたくさんあるのだから、それは土師の立場よりの考えだろう。
大失敗をしてしまった時なんかにあの時の自分はどうかしていた、自分ではなかったようだと感じるそういったメンタリティである。
逆に今現在進行形で起きている失敗があったとする。そのときに昨日までの自分と比較して、まるで自分が自分でなくなったかのような錯覚に陥ることは殆ど無いと思う。

また、夢の中の土師の台詞がまた気になる。
「きみの頭の中身は器を変えながら未来まで続いてゆくのだからね。せいぜい自分で自分を検閲し、まともなことを考えてゆけばいいや!一方僕の意志や心はこのまま肉体と一緒に滅びるわけだから、せいぜい間違った行動をして、それら全部を一人占めにしたままくたばるよ」

クローン技術を一般化して、同じ人間が生き続けるような世の中になったら、ということを踏まえての上記の台詞です。
たしかに、死んでいなくなってしまうクローン元の主人公とクローンを更に作って、記憶を継続させていく主人公。もはやこの二者は立場が違うと言えるでしょう。
死んでいくものは、ある意味で何をしてもいいんです。なぜなら世の中に残っていくのは間違った自分ではなくて、クローンにになった正しい自分なんだから。
これは強烈だなぁ、参ったなぁ、と思いました。
永遠に、クローンに記憶をわたして生き続けるとなると次のクローンに記憶のバトンタッチをするまでは自分自身がある意味で自分のものではなくなるのか、と思いました。
普通は人が死んでいくから新しい人間が入る枠がある。でも人が死ななくなれば新しい人間が入る枠はなくなる。そうすると社会への貢献度によって生き残ることが出来る人間と排除される人間が生まれるのでは、とかまで思考が飛躍したり。
銃夢の火星編の話とか最近みた楽園追放の話とかの影響ですが。
ただとにかくインパクトがあったのが上記で引用してる作品内の台詞ですね。
わたし個人にはこの作者の懊悩は刺さることが多いせいかもですけどね。特にニヒリズム的な部分がでている描写は刺さることが多い。

総評的なやつ

ドッペルゲンガーの恋人は、SF的見地からも色々と考えられるから面白いかな。発想自体はどこかで見たものばかりに感じるが、あるシチュエーションでどういう風に人が感じるのかとかの描写が面白く感じた。
不思議な雰囲気がでてるのは作者の一人称表現が絶妙だからだ、と思うんだけどなぁ。どうなんだろう。

倦怠感のある小説が好きな人には絶対おすすめしたい作品でした。まる

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