おもしろきこともなき世におもしろく

ライトノベル・SF・マンガ・ゲームの感想。それにMtG(モダン・ドラフト)についてちょろちょろと記載。

少年漫画と善悪二元論~悪役は最後に死なねばならぬのか~

藤崎竜封神演義を久しぶりに読みました。
2000年に完結した作品だから、かれこれ15年前の作品となります。(2015年3月30日読了)
完全版がちょっと前にでたから読みなおしたんですけどね。

悪役が勝ち逃げする話は許容されうるのか?

藤崎竜版の封神演義のラストは悪役の妲妃は、完全に勝ち逃げしてました。
いまでも、藤崎竜版の封神演義の評価を見ると、妲妃の勝ち逃げが許せないと思っているひとが多いみたいです。
で、ちょっと考えたのが悪役は最後にやられなければいけないのか?という点です。
物語としてのカタルシスを求めるなら悪役には最後に、みじめに死んで欲しいという意見もわかりますけど、それは必須の要素なのかというのが疑問です。
やられて欲しいという意見はわかるが、やられなければいけないのか、あるいは、悪役が勝ち逃げすることでより深みのある作品になるということはありえるのか、というのが知りたい。

物語論としてどうなんでしょうね。

好きな妲妃、もとい妲妃は悪役/邪悪な存在だったのか

「妲妃は狂っている」

上記のキャプションとともに人間の引きずりだした人間の腸を食べているシーンが序盤の妲妃の一番のみどころでしょうか。

「昔から言うでしょん♡女の心は海より深くって男にはわかんないモノなのよん♡」

女禍とのラストバトルにて。王天君が女禍の肉体を確保しようとした際に、そのフォローをしてくれた妲妃の台詞。
妲妃は本来は女禍側のキャラなんだけど、上記の台詞を残して王天君を助けてくれたんですね。
話が外れますが、この時の王天君の
「頼む妲妃。オレはアンタを母親だと思っている。何も言わずアレをわたしてくれ」という台詞も響いてきますね。
そして妲妃も自分が王天君の母親であることを自認しているですよねぇ。
この妲妃と王天君、引いては王奕、太公望との精神的な関わりがあるからこそ、妲妃が地球と一体化してグレートマザー(太母)となろうとするのをとめる太公望
さらには、女禍と一緒に死のうとしている太公望を妲妃が守るという展開へとつながっていくのですかね。

妲妃は、妲妃の価値観で動いていた。

女の心は~という台詞を持ち出すまでもなく妲妃は妲妃の価値観で動いてます。多分、その価値観は、他のキャラクターからはわからないものであって、妲妃の行動を他のキャラクターが裁くことはできなかったということなんでしょう。


よくよく考えてみると、封神演義には正義の味方なんていなかった

悪役は最後に死ぬべきだというのは、悪役がいてこそ成り立つ。善悪二元論が成立する世界でしか成り立たない話でした。
そもそも太公望の正体が始まりの人、伏犠であり、王奕なのです。
それは、武成王や天化、聞仲、それに通天教主を卑怯な方法で殺したのもまた、王奕だ、ということなんですよね。
最も、太公望と王奕が融合したあとの人格は太公望よりであったこと、王天君の妲妃に壊されたという台詞を鑑みると、王天君があそこまで邪悪だったのは、妲妃の影響が強いのかもしれないのですが。

そもそも封神計画サイドも女禍打倒のためには犠牲を許容している

そもそも封神計画サイドも、王奕の魂を分割して王天君とすることによって、武成王、天化の死を利用しています。そうやって聞仲を退け、天化の死を利用して殷から周への移行をスムーズにしています。

正義である必要はない

伏犠が、元始天尊と燃燈を味方につける際に発した台詞です。
女禍が今までに何度も、世界を自分の望む通りにするために、滅ぼしてやり直しをしてきたことを燃燈に告げた際、なぜ女禍が世界をリセットすることを見逃してきたのかと伏犠に問いかけます。
その際に伏犠は、女禍が何度も世界を滅ぼすことで、力を消耗し、逆に人間が何度も蘇ることで強くなるのをまっていたのだ、と返答します。
それに対して燃燈はその行いのどこに正義があるのだ、というのですが、それに対する返答が上記台詞「正義である必要はない」です。

そうなんですよね、そもそもの物語には正義なんてものはなかったんだということなんです。

ただ、お前に人間が支配されているのが気に食わなかっただけだ

伏犠が女禍と戦う理由です。ただただ、人間が女禍の都合で振り回されることが気に食わなかっただけだ、ということです。
だから、女禍の発する、わたしの支配から脱したら人間は幸せになれるのか?という問にも知らん、と返答することができる。

封神演義に関してはそもそも善悪二元論で語れる作品ではなかったので、悪役が勝ち逃げという話はナンセンス

結論としては身も蓋もない話ですね。
善悪二元論で語れる作品でもないならば、悪役は最後にやられなければならないという話にはならないんですよねぇ。

藤田和日郎ジョジョの奇妙な冒険に見る善悪二元論

少年漫画としては善悪二元論は、結構基本的な話の構造ですよね。
藤田和日郎荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険は、善悪二元論の構造がはっきりしています。
お二人とも、インタビューなどで、

  • 悪役は悪役でなければいけない
  • 最後に悪役は自分の行いを後悔しないといけない
  • 悪役は小物でなくてはいけない

など違いはあれど、悪役を持ち上げたり勝ち逃げしたりするのはダメだということを言ってます。
少年マンガとしては、やはり善悪二元論がメインになる話が多いよね、というのを改めて感じました。

正義の反対は別の正義

野原ひろしの明言としてよく流布されてやつですね、インターネットで。
個人的には大嫌いなんですけど。
どちらにも大義名分くらいはあるわけよ、現実ならさというだけの話じゃないのねぇ。
自分たちと同じように相手も正義を掲げているんだから、自分たちが一方的に正しい訳じゃないといいたいのかもしれないけどナンセンスだよなぁと思ってしまいますので。
ただ、正義の反対は別の正義であるというのは善悪二元論から脱出するのにはちょうどいい言葉ではありますよね。
だからまぁ死詐欺男にちょろっとは書いておきますが。